2022年8月6日 #0065 おしゃくじさん(しゃもじ塚) 大人の事情
2022年08月06日
おはようございます。岐阜市で保険代理店を営んでいる株式会社L’s(エルス)の河合淳司です。皆様、如何お過ごしでしょうか。
【今回は全く私的な内容になります。広義の意味で私のライフイベントですが歴史モノが好きな方はどうぞ】
今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はご存知でしょうか。物語は平安後期~鎌倉初期のお話で、これから血みどろの闘いが繰り広げられるところで目が話せませんね。
いつの時代もあることですが時の権力者が不都合な事実や仕組みをどんどんと捻じ曲げていきます。権力闘争による裏切り・謀略が絡み合う・その影響を受けて弱い者が理不尽を強いられる。強い者の驕り・弱い者の立ち回り・苦悩するシーンが節々に表現されています。
私達、視聴者はドラマの内容(人間の汚さ・世の中の『せちがらさ』)に自身の現状に重ね合わせて観ています。
ただ、私にとっては『鎌倉殿の13人』は、もう少し複雑な面持ちで観ています。
理由は、登場人物である上総広常(※1)千葉常胤(※2)の両総平氏が私の実家と深い縁があるからです。
とてもマイナーな話になりますが『平忠常(たいらのただつね)の乱:1028年』(※3)をご存知でしょうか。
大概の方は「平将門(たいらのまさかど)なら知ってるけど誰?」(※4)と返ってきそうですが、ザックリ言うと平忠常は平将門の(母方の)孫です。
平忠常公は戦に破れ、京都の護送中に私の実家の前で亡くなりました。旧暦(太陰暦)では6月28日、現在の太陽暦では8月6日です。世間では8月6日は『広島原爆投下』を思い浮かべるのが普通ですが私たちは『「おしゃぐじさん」の命日』を思い浮かべます。
口伝による伝承、、は弱い? なぜ真っ当に残せない??
文献にも出てくるのですが忠常公が護送中、私の家の前で飲み物を欲せられました。私の先祖が柄杓に水を組んで差し出すと美味しそうに飲まれて息を引き取りました。それ以来、実家の敷地(北東の位置)に塚を設置して代々、『おしゃくじさん』と呼んで私の家で供養を続けていましたが私の祖父の代(60年前くらい)に村に寄贈しました。
(祖父は早くに病で亡くなったので本人からは直折、理由は聞いていませんが私達が塚を守っていく事を案じた決断だとのことです。)
私が高校生の頃、地元・岐阜県の地域に残る史跡案内の本(平成になってから編纂された郷土の歴史集)が発行されたので見てみるとビックリしました。
『おしゃくじさん』が『しゃもじ塚』という名前に変更されていました。
文章を読むと内容は忠常公への水を差し出す柄杓が現代の『しゃもじ』で差し出した記載になっていたり、罪人である事を馬鹿にしたような書き方でした。(病人に触りたくないから『しゃもじ』に載せて憐れんで食物を渡したと。)ここまで適当な事を書くのか?子供ながらにとても腹が立ったのを今でも鮮明に憶えています。
(どうすることもできないので諦めました)
笑話ですが、はじめ、『しゃもじ塚』と聞いて、私の家族や親類は「どこにあるんだろうね。同じ地域だけど聞いたことない」と本当に全く見当がつきませんでした。意味を理解してからは呆れていました。
また
「祖父が村に寄贈してっしまったから書き換えられても文句いえないのかなぁ」
なんとも寂しそうな親の横顔を憶えています。
代々、その土地に住む人間・一族が口伝で伝えているのに、どうしたら内容が変わるのか?(古くからいる人は未だに『おしゃくじさん』と呼んでいます。)
ちゃんと文章として残していなかったのが原因でしょうか?
資料では『しゃもじ塚』と明記されていますが我が家では口伝で『おしゃぐじさん』と言い伝えられているので「どこから呼び方が変わってしまったのだろうか?」と疑問に思っていました。よくよく調べてみると『しゃもじ』は柄杓の意味で女房詞(にょうぼうことば)(※5)です。意味は『柄杓』。(以後に記載しますが)当時の編集担当・もしくはヒアリングした人が深く知らずに「違うかなぁ」でモノを変えて当時の状況を記載されてしまったのでしょう。本当に残念です。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で良く出てくるシーンで全国各地からの土地や田畑の水利(水を利用する権利)の揉め事の裁判所の合議がありますが、必ず重臣の誰かが個人的な都合で便宜を図らせようと事実を隠したりジャッジを不公平にしようと働きかけたりしています。それを実家の『おしゃくじさん(しゃもじ塚)』の件と重ね合わせて歴史の闇の部分を観ているので何とも言えない気持ちになります。
惜しい! 999年11か月違い 誕生日
その後、忠常公の事を調べていると何とも不思議な数字に出会いました。
なんと!
私の誕生日(1975.11.19)、平忠常公の誕生日(975.10.19)
あと一か月違ったらピッタリ1,000年違いの誕生日。
初めて知ったときは鳥肌が立ちました。今は勝手に親近感が湧いてます。(笑)
ちなみに私の家の家紋は源氏(笹竜胆)ですが、平氏の塚を守っています。
現代の私達には当時の事は分かりませんが女房詞といい、口伝といい、後世に堂々と残せない『何か』の力が働いているのは間違いないですね。
まさに歴史のミステリーです。
古より代々、語り継がれてきた『おしゃくじさん』の名前は消しません。
以前は様々な理由で文章で残せなかったとしても今の時代、良い意味でデジタルタトゥーとして継承しようと思います。時代が進み、誰かが平忠常公の事を調べる方が現れた時に塚を1000年弱(村に寄贈が悔やまれます)守ってきた人がいた事を残します。笑
平忠常公の子孫の方、連絡ください。手元に文献はありませんが何らかのヒントは話せます。
また、千葉県の忠常公ゆかりの地も訪れたいと思っています。
今回のブログはほぼ、個人的な内容となりました。しかし、歴史好きな方がいらっしゃいましたら仕事でもプライベートでも「ブログ見ましたよ!」と声かけてください。私は歴史好きなので朝まで語れます(笑)
(※1)上総広常(?-1184):平安時代後期の武将。上総国(現在の千葉県中部)の大豪族。源頼朝の挙兵に参陣し平家討伐に力を貸すも平氏打倒よりも関東の自立を望んだため頼朝に殺される
(※2)千葉常胤(1118-1201):源頼朝公の父と呼ばれた人。上総広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承する。のちに千葉県の名前の由来となる
(※3)平将門(903-940):武士ながら桓武天皇の血筋を引く。939年、自らを新皇と称して古代以来の支配体制を揺るがす大事件『平将門の乱』を起こす
(※4)平忠常(975.10.19-1031.6.28):房総平氏の祖。平将門の孫。1028年に房総3カ国で反乱を起こす。3年に渡って鎮圧できなかったが源頼信(源頼朝の祖先)に降伏し京都に護送中、1031年6月28日に中仙道・美濃国関ヶ原にて死亡。
(※5)女房詞(にょうぼうことば):もともと宮中で働く女性の間で使われた言葉。禁中(天皇の御所)に使える女房たちが活動する中で生まれたもの。